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カネ儲けしたい奴には近づかない

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最近の趣味は山歩きとランニングだが、先週ランニングの集まりで、たいへん不愉快な思いをした。 興味ある方は 別ブログ をご覧いただくとして、改めて感じたのは、ポーカーやカシノの集まりでは、こんなことはなかったなぁということである。 ポーカーの集まりでは上野をはじめ大阪や名古屋、岡山、沖縄、カシノではマカオやラスベガス、テニアンでたくさんの方々にお世話になった。もちろん勝った負けたがあるのでいつも上機嫌ではいられないにせよ、ほとんどの場合は来てよかったと思うことができた。 ごちそうになったことも再三あったし、会場やいろんな手配、現地での折衝など、会費では到底追いつかないくらいのご負担をおかけしたし、見返りを求められることなどなかった。七十年近い人生で、あの時だけかもしれない。 YouTubeでひろゆき氏が、 お金持ちは自分が負担することを苦にしない。 細かいことを言うよりカネを出せば解決するならそうすると言っていたけれど、そういうことである。お金持ちにはいい奴が多いのだ。 先だって読んだある本に、貧乏人が長生きするのにもっとも効果がある方法は、お金持ちの多く住む場所に引っ越すことだと書いてあった。 ビッグデータ で証明されているそうだ。おそらくこれも同じことである。 逆に、これまでの人生で 嫌な思いをした時を思い出すと、ほとんどすべて、他人の足を引っ張りたい奴、カネ儲けしたい奴が関わって いる。これは実は同じことで、他人が持っているモノを手に入れたいということなのだ。 そういう連中は、お金持ちとは逆の考え方をする。自分が負担するのは絶対に嫌でカネは他人に押し付ける、もしくはいいとこ取りをするのは当然という考え方をする。無防備に近づけば、餌食になるだけである。 (貧乏なコミュニティは平和で助け合って生きているというのも都市伝説で、実際は盗難が日常茶飯事でいろんな犯罪の巣窟となっているという。) だから、できるだけ付き合いは広げない、他人と関わり合いにならないことがすぐれた自衛手段なのだけれど、人間が甘いのか時々こうやって危険地帯に近づいて嫌な思いをしてしまう。 人生の中で、本当のお金持ちとお近づきになる機会はほとんどない。いい奴というのは高学歴にもいなければいい会社にもおらず(もちろん身長にも関係なく)、多くの人は他人を出し抜い...

働かなくたっていいんじゃないか

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さいきん思うようになったのは、 一生懸命働く必要なんかないんじゃないか ということである。 働かざる者食うべからずと教えられて育ってきたし、禅やプラグマティズムの影響で働くことは当然とされている。私だって、食べるものを作ったり生活するために必要なものを自分で調達することは当然と思っている。 ところが、最近働くといえば生活とは関係ないカネ儲けばっかりである。だからルフィーみたいな連中が出てくるし、メールを開ければスパムばっかり、固定電話に入ってくるのはワン切りの勧誘電話ばっかりである。最近では、家のチャイムを鳴らして「屋根が壊れてるんですけど」と言い出す奴までいる。 「そういう人達だって一生懸命働いてるんだから」と奥さんはかなり寛容なのだけれど、だから振り込め詐欺がなくならないのだと言っても通じない。ルフィーは極悪非道だが、下請けで電話をかけたり集金に行くのはパートやセールスマンと同じ仕事である。 カネをもらって誰かにやれと言われたらするのが仕事ではないだろう。 困ったもんだと思う。 若い頃は、飽食の時代がそんなに長く続くことはありえない。いずれ食糧危機が来て、みんな不自由になるのだと考える人もいたが、そろそろ寿命がくるかもしれないのにそういう気配はない。ありがたいことではあるが、人間のレベルは落ちる一方である。 近未来にそういう事態が想定されると、世間には最終戦争とか世紀末という言葉があふれる。それでオウムが急拡大したのだが、そろそろ21世紀の4分の1が過ぎるのに時代は恐怖の大王が来る前と同じである。違うのは世紀末とは言えない点だが、そんなのキリスト教でそう決めただけである。 男女平等とかプライバシーとか言われ始めたのは、そういう事態が想定されなくなってからである。食べるものに不自由せず社会資本も十分ある中で、村落共同体的な消費生活では景気拡大が望めないからそうなった。どういう生活が望ましいかではなく、どうすると儲かるかで決められたのだ。 個人消費を拡大するためには、各自がカネを稼いで自分の好きなように使う必要がある。でも、本来は個人個人が消費しなくても、家族や共同体で共有できるものも相当あるはずなのだ。男女平等もプライバシーも一長一短あって、みんながみんなそれを求めている訳ではないし、幸せになれるものでもない。 仮に働くことが美徳で...

入山禁止作業に出くわし、気分が暗くなった ~宝篋山弁慶平(後編)

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アンテナ管理林道に出て宝篋山に向かうつもりだったが、気が変わった。いい天気なのできっと登山者が大勢いるし、舗装道路を歩くのも気が進まない。弁慶平でゼリー飲料を補給したので、それほどお腹も減っていない。 それよりも、林道分岐を右に折れて、 まだ行ったことのない438の独標点、アンテナ塔のあるピークに 行ってみよう。気がついた時に行かないと、ずっと行かない。 ベンチ風に切り株が並んでいる分岐点を折れて、戻るように坂を登って行く。アンテナ塔まではすぐだった。フェンスで囲ってあり「関係者以外立入禁止」と書いてある。休む場所はなかった。 独標点はアンテナ左の薮の中だろうか。心なしか高くなっているようだ。とはいえ、フェンスと薮でその方向には進めない。独標点にはたいてい目印はなく、探すべきものはない。 アンテナ塔を撮影して、今日の最高地点はこれにて終了とする。来た道を引き返して分岐に戻る。小町山までは下り。30分ほどで着くはずだ。 ここで、見慣れない景色に出くわした。林道に自動車が止まっている。ここはアンテナ管理道で、入口には車両通行止の柵がある。近づいてみると「林野庁茨城森林管理署」と書いてある。 周囲を見回すと、林道から分岐する国有林管理道の出口に、黄黒のトラロープと「立入禁止 立入禁止」と印刷してある幅広テープ、立入禁止の注意書きを揃えて、 係員がひとり、登山道封鎖の作業中であった。 林道を歩いている私と目が合ったが、特に何も言わず、私も話しかけずに通り過ぎた。林道の南側は国有林で、もともと作業道だったものが登山道として使われ今日に至っている。私がこの日登った弁慶平も国有林の中にある。 何ヶ所かある林道への出口で、ご丁寧に同じような封鎖をしている。最近管理が厳しくなったのかなと思ってパープルラインへの出口を見ると、目立つ印刷の注意書きが新たに貼られていた。 「進入禁止 ここは宝篋山への登山道ではありません。許可を受けずに通行することはできません」 ( 2月2日のブログ に写真あり) なんと、筑波山と同様、宝篋山も世知辛く入山禁止の道路が出てきた訳である。あっという間に気分が暗くなった。ここはアンテナができる前から登山道のはずで(でなければ独標点はない)、道路を作った者以外は使えないというのは道の趣旨に反する。 パープルラインは制限...