三毛別ヒグマ事件跡地
昨年もクマ被害の話はあったが、今年は昨年以上に多発している。知床の登山者に始まり、キノコ狩りや温泉管理のおじさん、最近は民家の庭先にまで現れて人間を襲っている。
ここまでくると、有害獣駆除ということで人里に出てきたら射殺するでいいのではないか。希少動物保護も遺伝子多様性も大事だろうが、人の安全とどちらが大事かということである。保護保護言ってる奴らは、クマに顔でもひっかかれればいいのだ。
以下は2014年8月、道北の三毛別ヒグマ事件の跡地に行った時の記事。当時もいまも、クマに食われるのは安らかな死に方とはいえない。
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未舗装道路を進むこと1km弱、いよいよヒグマ事件跡地に到着した。車の周囲には、さっそく虻やら蜂やらが寄ってくるので、まずは車の中から観察する。大正時代とはとても思えない粗末な小屋に、巨大な熊が襲いかかっている(写真)。
ヒグマは北海道に生息していて、本州のツキノワグマに比べて気性が荒く、人間にも平気で襲いかかってくるといわれている。だが実際にはツキノワグマと同様、ヒグマも基本的には人間を避けたいという気持ちは持っているようだ。でなければ、クマが人間を襲うという事件はもっと多いだろう。
ヒグマの本拠地である日高山脈でも、登山者をヒグマが襲った大事件は1970年の福岡大学事件などがあるものの、それほど多い訳ではない。最近でもヒグマ目撃情報は山ほどあり、実際に写真に撮った人も多くいるにもかかわらず、ヒグマの方が逃げているので大事に至っていない。やはりヒグマにも個体差があり、あまり無謀なのは遺伝子を残せないのかもしれない。
思うに、ヒグマ以上に現実の脅威なのは蜂である。熊はニュースになるが蜂はニュースにならないためあまり知られていないが、熊に襲われて死ぬ人はほとんどいないのに対し、蜂に刺されてアナフィラキシー・ショックによって命を落とす人はけっこういる。北海道の山道を通ると、こうして蜂がぶんぶん飛んでいるのに出くわすことがある。とても車の外には出られない。
資料館のおばさんはまだ大丈夫と言っていたけれど、やっぱり蜂はいるのであった。洞爺湖の近くに虻田という地名が残るように、北海道は虻だの蜂だのが多い土地なのだ。もっとも、雪解けからそれほど経っていない7月初めなのでよく見ると1、2匹しか飛び回っていないようなので、隙を見て車の外に出てみる。
再現展示のヒグマは、資料館の展示熊よりかなり大きい。実際に巨大熊だったのは確かなようである。それより驚いたのは小屋の中で、ほとんど倉庫と変わらない。白老や阿寒湖のポロトコタンにあるアイヌのチセは江戸時代のものを再現しているのだが、そのくらいの時期に作られたように感じる。でも実際は大正時代なのである。開拓農民の生活はそれほど厳しかったのだろう。
現在は舗装道路より奥に人は住んでいないようであるが、事件当時ここよりさらに奥まで人家はあったらしい。なぜこんな山奥に入植したのか考えてみると、当時は鉄道網も高速道路網もない。あまり豊かでない開拓農民が移動してきた手段は、おそらく海路である。だとすると、鰊御殿が建つほどニシン漁が盛んだったこのあたりは、いま考えるほど山奥ではなく、上陸した港から近かったのかもしれない。
草むらの中に、さりげなく熊のオブジェが置かれている。最初から藪の中に置いたのか、それとも作ってから周囲に草が進出してきたのだろうか。「熊出没注意」と書かれているので、ちょっとびっくりする。
再び蜂が寄ってきたので、何枚か写真を撮って早々に車の中に戻る。よく見ると建物わきにはヒグマ事件の概要が書かれている案内板があり、周辺には遊歩道やトイレも整備されているらしい。とはいえ、これだけ虻蜂が多いと外を歩くのは難しいだろう。地域おこしのためがんばって作った施設だろうけれど、歩いて見れるのは雪解けからわずかの間なのかもしれない。
p.s. 全国のB級スポット探訪記、バックナンバーはこちら。
ついに出た!冬眠しそこねた巨大熊が開拓農民の家を襲う!それにしても、大正時代の開拓農民の家が、江戸時代のアイヌのチセとそれほど変わらないのにはちょっと驚く。

さりげなく薮に置かれた熊のオブジェ。「付近に熊が出没します」と書かれているが、これは本物ではない。熊はともかく、虫が多いのであまり長居はできない。
ここまでくると、有害獣駆除ということで人里に出てきたら射殺するでいいのではないか。希少動物保護も遺伝子多様性も大事だろうが、人の安全とどちらが大事かということである。保護保護言ってる奴らは、クマに顔でもひっかかれればいいのだ。
以下は2014年8月、道北の三毛別ヒグマ事件の跡地に行った時の記事。当時もいまも、クマに食われるのは安らかな死に方とはいえない。
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未舗装道路を進むこと1km弱、いよいよヒグマ事件跡地に到着した。車の周囲には、さっそく虻やら蜂やらが寄ってくるので、まずは車の中から観察する。大正時代とはとても思えない粗末な小屋に、巨大な熊が襲いかかっている(写真)。
ヒグマは北海道に生息していて、本州のツキノワグマに比べて気性が荒く、人間にも平気で襲いかかってくるといわれている。だが実際にはツキノワグマと同様、ヒグマも基本的には人間を避けたいという気持ちは持っているようだ。でなければ、クマが人間を襲うという事件はもっと多いだろう。
ヒグマの本拠地である日高山脈でも、登山者をヒグマが襲った大事件は1970年の福岡大学事件などがあるものの、それほど多い訳ではない。最近でもヒグマ目撃情報は山ほどあり、実際に写真に撮った人も多くいるにもかかわらず、ヒグマの方が逃げているので大事に至っていない。やはりヒグマにも個体差があり、あまり無謀なのは遺伝子を残せないのかもしれない。
思うに、ヒグマ以上に現実の脅威なのは蜂である。熊はニュースになるが蜂はニュースにならないためあまり知られていないが、熊に襲われて死ぬ人はほとんどいないのに対し、蜂に刺されてアナフィラキシー・ショックによって命を落とす人はけっこういる。北海道の山道を通ると、こうして蜂がぶんぶん飛んでいるのに出くわすことがある。とても車の外には出られない。
資料館のおばさんはまだ大丈夫と言っていたけれど、やっぱり蜂はいるのであった。洞爺湖の近くに虻田という地名が残るように、北海道は虻だの蜂だのが多い土地なのだ。もっとも、雪解けからそれほど経っていない7月初めなのでよく見ると1、2匹しか飛び回っていないようなので、隙を見て車の外に出てみる。
再現展示のヒグマは、資料館の展示熊よりかなり大きい。実際に巨大熊だったのは確かなようである。それより驚いたのは小屋の中で、ほとんど倉庫と変わらない。白老や阿寒湖のポロトコタンにあるアイヌのチセは江戸時代のものを再現しているのだが、そのくらいの時期に作られたように感じる。でも実際は大正時代なのである。開拓農民の生活はそれほど厳しかったのだろう。
現在は舗装道路より奥に人は住んでいないようであるが、事件当時ここよりさらに奥まで人家はあったらしい。なぜこんな山奥に入植したのか考えてみると、当時は鉄道網も高速道路網もない。あまり豊かでない開拓農民が移動してきた手段は、おそらく海路である。だとすると、鰊御殿が建つほどニシン漁が盛んだったこのあたりは、いま考えるほど山奥ではなく、上陸した港から近かったのかもしれない。
草むらの中に、さりげなく熊のオブジェが置かれている。最初から藪の中に置いたのか、それとも作ってから周囲に草が進出してきたのだろうか。「熊出没注意」と書かれているので、ちょっとびっくりする。
再び蜂が寄ってきたので、何枚か写真を撮って早々に車の中に戻る。よく見ると建物わきにはヒグマ事件の概要が書かれている案内板があり、周辺には遊歩道やトイレも整備されているらしい。とはいえ、これだけ虻蜂が多いと外を歩くのは難しいだろう。地域おこしのためがんばって作った施設だろうけれど、歩いて見れるのは雪解けからわずかの間なのかもしれない。
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ついに出た!冬眠しそこねた巨大熊が開拓農民の家を襲う!それにしても、大正時代の開拓農民の家が、江戸時代のアイヌのチセとそれほど変わらないのにはちょっと驚く。

さりげなく薮に置かれた熊のオブジェ。「付近に熊が出没します」と書かれているが、これは本物ではない。熊はともかく、虫が多いのであまり長居はできない。

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