「思い出の品」はもういいかな

先週は、パソコン周りからいろいろ部屋を片づけた。

発端は、画面でたびたび注意喚起されるWindows 10のサポート終了である。この間Windows 7のサポートが終わったばかりだというのに、忙しいことである。Microsoftも商売したくて大変である。

まだ1年半あるし、いまのところ新しいパソコンに買い替えるつもりはない。急に使えなくなることもないだろうと思っているけれども、万一に備えてパソコンが突然死した場合の対応をいろいろ考えている。

その中で、昔のパソコンとか、いま使えない周辺機器をどうすると考え出したら、結構奥深いところで気づくことがあった。そのことをちょっと書いてみたい。

十五年前に買ったネットブックというパソコンがある。メーカーはエイサー(台湾?)で、当時結構話題になったが、すでに国内では売っていない。おそらくサポートもしていないだろう。

この商品の特色はCD-ROMもFDDも付いておらず、ソフトの更新やアプリケーションの追加はネット経由になるというところにある。その分軽量化が図られていて、持ち運びには便利であった。

このネットブックを持って、ラスベガスにもマカオにも行った。出張や国内旅行でも使った。当時はたいへん重宝させてもらった思い出のマシンである。

ところが、Windows 10パソコンが使えなくなった場合に代替機として使えるかどうか試してところ、なぜかネットにつながらない。無線どころかLANケーブルにつないでもダメ。USB経由でデータのやり取りはできるが、Officeが入っていないしデータだけやり取りできてもあまり使い道がない。

なにしろOSがXPなので、とっくにサポート終了している。前に使ったのは四国お遍路の時、もう4、5年前である。その時は、どこでLANケーブルにつないでもさくさく動いた。しかしいまは、設定画面に戻って先に進まない。

ネットブックに限らず、普段使わないものを残しておく理由はいくつかある。何かの時に使うかもしれないこと、廃棄したら2度と手に入らないこと、もう一つは過去のできごととつながるところの記念とか思い出である。

機械ものについては、何かの時に使えるかどうかはたいへん重要であり、「2度と手に入らない」のは使えるという前提付きである。使えないものは、再び入手できないとしても実害はない。

そして、機械ものに限らず、記念とか思い出になるからという理由でとっておいたとしても、この歳になるとあまり意味がないような気がする。残しておいたらいずれ誰かが処分しなければならない。

もう67歳だから、これから先何十年も時間がある訳ではない。残しておいても残したことさえ覚えていないことだってありうる。そもそも、この歳になっても大事なのは今とりかかっていることであって、過去を振り返っている時間はない。

長くなったので続きはまた。

p.s.老後準備編、バックナンバーはこちら

残すものが多ければ多いほど、自分以外に迷惑がかかることになる。これを世の人々は「終活」というのであろうか。

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