思い出の品はもういい(先週の続き)

先週の続き。思い出の機械だからといって、もう使えないものを取っておいても仕方ないというところまで書いた。

そこで思ったのは、これは機械だけにとどまるものではなく、諸事全般、いろんなことに通じるのではなかろうかということである。

記念品とか、いつか読むかもしれない本、見たくなるかもしれないビデオなど残しておいたとしても、見る可能性は低い。読むんだったらいまでも読んでいるはずだし(村上春樹とか梨木果歩などいまでも時々読み返している)、読まないのなら置いておくだけスペースのムダである。

スペースのムダだけで済むならいいけれども、遠からずこの世からいなくなったり、いたとしても認知機能に支障が発生する可能性は少なくない。残すものが多ければ多いほど、自分以外に迷惑がかかる。

それまでの期間はどのくらいだろうか。平均余命=健康寿命と仮定しても、それまであと20年しかない。これまで10年以上使わなかったものを、あと20年で使うことがあるだろうか。

にもかかわらずこうした品物を処分するのに躊躇する理由は、かつて引っ越しとか大がかりな身辺整理をした際に整理したいくつかのものを、後になってたいへん後悔したからである。

ただその内容はというと、若い頃の経験をそれらがないことによって思い出すことが難しいからである。思い出せないからと言って実害がある訳ではなく、思い出せなかったで済む。深刻でないといえば深刻ではない。そして、そのうちそんなものがあることすら思い出せなくなれば意味がないし、あってもなくても同じである。

そう思うと、残すものがあったとしてもUSBとかクラウドとかに保存できるくらいで十分なような気がする。それなら、もしもの時は瞬時に消去できるし、そもそもスペースをとらない。クラウドなら利用料を滞納していればいつかは消える。

だから、ものとして残しておくのはいままさに使う必要があるものだけでよく、思い出はデータに残せば十分ということになる。そして、そのこと自体技術的には何の問題もない。かつてのネガフィルムとかアナログなものも、おカネさえ払えばデータ化できる。そこまでするかどうかの判断だけである。

これを世の人々は「終活」というのであろうか。

p.s.老後準備編、バックナンバーはこちら

残すものが多ければ多いほど、自分以外に迷惑がかかることになる。これを世の人々は「終活」というのであろうか。

このブログの人気の投稿

働かなくたっていいんじゃないか

マーガリンは本当に体に悪いのか

これは貧血じゃなくて塩分摂り過ぎ?