ほとんどの人は何も考えていない

さいきん立て続けに「何だこれは」という目に遭った。ほとんどの人は何も考えていないとつくづく感じるし、世の中を少しでもよくするため自分も何かしようという気がなくなる。

諺に「天網恢恢疎にして漏らさず」というし、アダム・スミスは「神の見えざる手」と言ったけれど、実際のところ悪人は栄えるし善人は損をする。マーケットが決めるのは価格だけで、需要を増やすことも供給を増やすこともできない。

私が世の中に求めるレベルは、「嘘をつかないでくれ」と「約束を守ってくれ」というレベルである。残念ながら大企業や世の中を動かす人々はそのレベルにも達していない。自分達が儲けるためには、嘘も平気だし約束など守らない。下がそうだということは、そういう人間が出世して模範となっているからである。

嘘をついて他人を惑わすのはよくないし、約束は原則として守るべきだ。もちろん綺麗事だけで済むものではないが、少なくとも建前として守る姿勢がほしい。それがなくなったのが、アベノミクス(マスク?)の最大の問題点だと思っている。

私の育った昭和30年代はまだ日本全国貧乏だったし、生活環境も衛生環境もよくなかった。街を歩けばツバを吐く奴吸い殻を捨てる奴が山ほどいたし、横断歩道があっても車は止まらなかった。

切符を買うにも電気製品を買うにも駅や店に行かなければならなかったし、米や酒は家まで届けてもらわなければならなかった。いまと比べるとたいへん不便な世の中であった。

それでもよかったことはいくつかあって、戦争に負けてまだ間もなかったので、民主主義とか平等ということが建前だけでも重んじられていた。学校に行けば体罰もいじめもあったけれど、少なくとも生徒同士は同等であることが保障されていたように思う。少なくとも、誰とかは元華族だとか先祖は武士だとか聞いたことがない。

ところがある時期から、勉強ができる生徒はできない生徒より偉い、友達の多い奴は少ない奴より偉い、カネ持ちは貧乏人より偉いということになった。小さい時からそういう価値観に慣れて育ってきた子供達は、そういう大人になる。

多くの人は、面識もなく何の得にもならない人間は存在しないと思っている。自分以外は実在しないというアイデアは精神の平衡を保つために有効であるが、そういう人間が他者と関わったり、まして公職についてはならない。存在しない他者の痛みが分かるはずがないからである。

勘案しなければならないのは仲間内だけ、へりくだるのはおカネに対してだけ、四半期より先のことは考える必要がないというネコ並み頭の持ち主がいまの世の中を動かしている。悲しいことである。

でも、そうやってカネのあるなし、自分に損か得かで判断していると、世の中はどんどん住みにくくなっていくように思える。情けは人のためならず。カネがない奴を侮っていれば、いつか自分自身が軽んじられることになりはしないか。少なくとも、損得でいえば結婚するのも家族を作るのも短期的には損である。少子化も当り前である。

別に侮られようと軽んじられようと構わないけれども、不愉快な思いをするような場所にできるだけ近づかないようにしようと考える。そこから、自分が行かない場所は掃除しない、自分が関わらない人がどうなろうと構わないという考え方まですぐである。

そんなことを考えて、いろんなことから徐々に距離をおくようになってきている。ストレスは不健康につながり、不健康は人生の満足度を少なくする。この歳になって、わざわざ嫌なことをする必要はない。住みにくい社会になるかもしれないが、私がいるのもあと数十年の話だ。

p.s.なんとなく思うこと、バックナンバーはこちら

いまの日本に菩提達磨がいたら、面壁九年座禅を組み続けることはできるだろうか。

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