四国歩き遍路・初お接待
四国札所の歩き遍路は、六十歳を機会にリタイア直前から始めて、リタイア後に結願した。
一番から一周し、その足で高野山まで行った時は、お大師様にお会いするためすぐに逆回りを始めようと思っていたのだが、経済的な理由でそれができず今日に至っている。当時の記事を読むとずいぶん昔のように感じるが、ここ最近ホームページでアクセスが最も多いのはお遍路記事である。コロナ前なのでちょっと古いが、そろそろ皆さん歩きたくなったのだろうか。
以下は2016年6月、9年前の記事になる。初めてお接待をいただいた十七番井戸寺の時のことを書いている。歩いたのは2015年11月だからもう10年前である。
--------------------------------十六番観音寺を出た時点で、すでに時刻は3時近い。予定ではすでに井戸寺を出ていなければならない時間であり、ちょっとあせる。徳島駅前の「びざんの湯」で汗を流して着替えるためには、少なくとも4時には井戸寺を出発したいところである。
十六番観音寺から十七番井戸寺までは市街地を通る。方向としてはJRの線路を南から北へ渡るので、そんなに大きく間違いようがないけれども、それでも道間違いは避けたい。山野袋に入れておいた遍路地図のコピーを取り出し、手に持ちながら歩く。
しかしながら困ったことに、このあたりの遍路地図は南北逆さなのである。私にとっては、北が上の方がずっと分かりやすい。というよりも、そうでないと間違える。カーナビでさえ、進行方向を上にしていると訳が分からなくなるのである。
観音寺の前の通りをまっすぐ進むと東である。つまり、方角としては徳島に向かっている。井戸寺は線路を渡って北なので、方向としては前か左に向かわなければならない。しばらく歩くと有名な遍路宿である「鱗楼」(うろころう)があった。閉まってはいないようだがあまりひと気はないようだった。
鱗楼の先で太い通りと交差したので、左に折れてみる。左手は大きな神社である。「大御和神社」と書いてある。崇神天皇の時代に建てられたという、前時代の支配者の神社である。国分寺と違って、境内にはひとの手が頻繁に入っているように感じられた。上から押し付けられたものはあまり根付かないが、人々が畏れ奉った神々は、長い時代を生き残るということだろうか。
大御和神社の前をまっすぐ進むと、やがて交通量の多い通りに出る。近くにスーパーマーケットも見えるので、駅前通りなのかもしれない。このあたりで、井戸寺に向かう道案内を見つけた。この大通りを渡って、反対側の細い通りへと行き先を指示している。しかし、指示のとおりに通りの向こう側に渡ると、案内もシールもなくなってしまった。
幸いにすぐ近くがJR府中(こう)駅である。遍路地図を見ると、駅の先で線路の北に出るようなので、それらしき道を探す。しかし、そんな道は見当たらない。仕方なく、渡れそうな踏切のある道まで200mばかり歩く。すぐそばに病院が見えたので遍路地図の示す経路よりずっと先(東)なのだけれど、その道を北上して踏切りを渡る。
この道は、車は通れるものの真ん中に線は引かれていない一車線の道路である。だから、車が来るたびに立ち止まってやり過ごしてという繰り返しであった。とはいえこのあたりからようやく遍路シールが復活したので、少し安心していたのである。
向こうから来た車が端に寄って止まったので、よけようと思って道の中央に出たら、車を運転していた中年の女性が下りてきた。何だろうと思っていると、手に持っていた昔風の買い物かごを差し出して、「お接待させてください」と差し出すのである。おお、これが名高いお接待か、と驚いたのが半分うれしいのが半分である。
かごの中には、お手製の巾着袋が十個くらい入っている。ありがたく一ついただいた。「どこからいらっしゃったんですか?」「今朝は雨だったんで、大変だったでしょう」など、歩き遍路ならではの話題を振っていただき、「それでは、気をつけて」と車に戻られたのである。
この回は泊まらずに徳島から帰ったので、家に帰ってから開いてみると、小さな巾着袋の中に、おせんべいやクッキー、キャンディ、柿の種とピーナッツ、黒糖などいろいろな種類のお菓子が詰め合わせてあった。ありがとうございました。
初お接待から5分ほど歩くと、十七番井戸寺が見えてきた。住宅街の中、はるか向こうから山門が見えた時にはうれしかった。時刻はまだ3時半、なんとか徳島に戻って風呂に入れそうな時間である。
左の建物が十七番井戸寺本堂。中に入ることができ、ご本尊の七仏薬師如来を拝むことができる。
井戸寺から徳島までは、眉山をめざして進む。この7kmはきつかった。
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