アマ・タリシヒコと署名していれば聖徳太子ではない
いま、ホームページをgodowngamblin.netからgodowngamblin.comに移す作業に掛かっている。.netのドメインを契約しているお名前.comがけしからん勧誘メールをたびたび送ってくるからである。6月の更改時に、解約しようと思っている。
他にすることがない年金生活者だから時間は余るほどあるが、数千の記事、数万の画像を旧サイトから新サイトに移すのは大変である。作業に加えて、自分が昔書いた記事を読んでしまうものだから、余計に時間がかかる。書いたことを忘れているのである。
以下は「常識で考える日本古代史」シリーズに掲載した、隋書の記事。聖徳太子が隋に国書を送ったことは教科書に載っているが、太子が「アマ・タラシヒコ」ないし似た名前を名乗ったことはない。どう考えても別人物なのだが、日本の学会はそれでいいとしている。
もうすぐ70歳だから、こうしたいい加減な歴史教育が改まることは私の生きている間ないだろう。残念なことである。おそらく多くの人にとって、真実とは誰かが大声で主張したことなのだ。
以下は2008年9月だから、もう18年前の記事になる。
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この点について、井沢元彦氏は著書「逆説の日本史」において、以下の主旨で説明している。
いまでもそうだが、古代において貴人の実名を口にすることはできなかった。そのため、使者は隋の役人に王の名前を聞かれて、「われわれはアマノタリシヒコとお呼びしています。あるいは、オオキミと呼びます」と答えた。それを聞いた隋の役人が姓名をアマ・タリシヒコ、王を指す言葉をオオキミと記録したのであろう。
確かに、古代の中国文化圏において、皇帝の実名を呼ぶことが不敬とされたことは事実である。例えば、日本でも広く信仰されている「観音さま」の本当の名前は「観世音菩薩」である。この「世」がなぜ消えたのかというと、唐の二代皇帝の実名が「李世民」であったため、ちょうど日本に仏教が広まるころ「世」の字が使えなかったからなのである。
しかし、使者が実名を呼ぶことが不敬だから、倭国王の名前が不明であるという説明はおかしい。使者が口頭で説明をするだけならば成り立つかもしれないが、倭国から隋には例の「日出づる処の天子」の国書が送られているのである。確かに、最初の朝貢である開皇20年(西暦600年)の時には国書を送ったとは書いていない。だが、大業3年(607年)の時には国書が送られていると記録されている。
国書である以上、差出人の名前と肩書きが書かれていないことは考えられない。差出人の肩書きとして「阿輩○弥(オオキミ)」、名前が「阿毎 多利思比孤」と書かれていたから、姓はアマ(阿毎)、名はタリシヒコ(多利思比孤)、オオキミ(阿輩○弥)と号す、と隋書に記録されたと考えるのが自然である。
いまでも、天皇陛下の署名・捺印は「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」と呼ばれており、あからさまに陛下のお名前をお呼びすることはない。しかし、国事行為として行われる際の御名(ぎょめい)、つまり天皇陛下の署名には、当然のことながら陛下のお名前が書かれている。それと同じことである。
p.s. 「常識で考える日本古代史」バックナンバーはこちら。
隋の煬帝 南北朝の混乱を収束し300年ぶりに統一王朝を創り上げた隋だが、その後30年足らずで滅亡する。煬帝は、倭国からの国書を見て「以後、取り次がないように」指示した。
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